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冥王星が惑星でなくなって早1週間が経過しました。
この結果を嘆き悲しみながら迎えたアサドリさんです。
ところで、私は冥王星が惑星でなくなることが何でこんなに悲しかったのか。
単純に、プルート(byスペースルーラーズ)が本家ボスで一番好きだからか。
で、考えてみました。
数日前の、とある新聞で目にした内容。
冥王星発見国であるアメリカでは、
冥王星はディズニーキャラの名前になるほどポピュラーな惑星でした。
なので、惑星から外されるという決定がなされたときも、
当然反発はあったわけです。
そんな中で。
自国が発見した星への愛着は、あって当たり前だと私も思うんです。
でも何だろう、下線にした部分にものすごい違和感を覚えたのです。
それは何なのか。つらつら考え合わせてみまするに。
「惑星にあらずんば星にあらず」なのか、と。
どういうことかと申しますと。
ギンガリッチ教授の「小さい人は人でないのか」の発言に、
恐らくコーカソイドであろうと思われる彼より小柄なアジア人として
何というかこう、微妙にコンニャロオと思ったわけで。
その瞬間、違和感の謎も解けたわけです。
無論、教授の言う「小さい人」は、冥王星の小ささを例えたものであって
ホンモノの「小柄な人」を指しているわけではありません。
ただ、その言葉の中にどこかしら、「小さい人」を劣ったものと見る視線を
わずかに感じてしまったわけなのです(邪推であることを祈ります)。
で、「小さくたっていいじゃねえかよう」と。
というより、良し悪しは大きさで決まるわけじゃない、わけで。
だとしたら、なんで惑星じゃないといけないのか。
矮惑星じゃいけない理由が、果たして何かあるのか。
「惑星」「矮惑星」と区分はあくまで区分であって、序列じゃありません。
価値としてはあくまで平等なヨコの関係であって、優劣のタテ関係じゃありません。
この世にいろんな国やら文化やらがあって、
みんなそれぞれ価値がある(理論上は)のと一緒。
いいじゃないですか矮惑星だって。ちょっと分け方が今までと違うだけです。
冥王星そのものは何も変わりません。今までどおり、ロマンのある天体です。
「アメリカ人のトンボー博士が発見した天体」って事実だって、そのままです。
(とすると、散々言われた「降格」って表現もちょっとアレですな)
それに何てったって、今度決定された惑星の定義そのものは、
とてもスッキリしていて分かりやすい。
現時点でこれが科学的に正しい結論なら、私は受け入れるのに抵抗ありません。
さらに言うなら、惑星じゃなくなった冥王星は、
てなことになるんだそうです。
ある企業の社員が独立して、別の会社の広報トップになるようなもんでしょうか。
社長とまでは行きませんが(「冥王星系天体」って名前じゃないので)、
考えようによっては、これだって充分出世じゃないかしら。
もちろん、惑星を中心に物事を考えてる今の社会では、
惑星じゃなくなったことで重要度や話題性が格段に落ちることは否めません。
それでも、何より私が言いたいのは
「人間社会での重要度や話題性≠星の価値」ってことです。
(そして仮にも一度は惑星だった星ですから、
今後も教科書の囲み記事に、そのエピソードは載り続けるでしょう)
というわけで。
そう思ったので、今はあんまり悲しくないです。多分。
いえ、ホントのこと申しますとね、
この冥王星騒ぎでプルートにまんまと首までドハマリしてるって寸法です。
うん。
で、ウチ、確かXシリーズボスサイトなんでしたよね。
でもいいんだ、ボスなんだから。
この結果を嘆き悲しみながら迎えたアサドリさんです。
ところで、私は冥王星が惑星でなくなることが何でこんなに悲しかったのか。
単純に、プルート(byスペースルーラーズ)が本家ボスで一番好きだからか。
で、考えてみました。
数日前の、とある新聞で目にした内容。
冥王星発見国であるアメリカでは、
冥王星はディズニーキャラの名前になるほどポピュラーな惑星でした。
なので、惑星から外されるという決定がなされたときも、
当然反発はあったわけです。
そんな中で。
ワシントン・ポスト紙は25日付朝刊の1面トップ級の扱いで「惑星・冥王星は死んだ」「ある人々にとっては合理性が感傷に勝利した結果だが、他の人々に大きな失望をもたらした」と書いた。
冥王星は惑星ではなく、もっと小さな矮惑星だと位置づけられた。(中略)ハーバード大のオーウェン・ギンガリッチ教授(天文学、科学史)は、同紙上で「われわれはいま、矮惑星は惑星ではないという不合理さと直面している。小さい人は人ではないのか」と疑問を投げかけた。
(2006年8月26日朝日新聞朝刊、下線アサドリ)
自国が発見した星への愛着は、あって当たり前だと私も思うんです。
でも何だろう、下線にした部分にものすごい違和感を覚えたのです。
それは何なのか。つらつら考え合わせてみまするに。
「惑星にあらずんば星にあらず」なのか、と。
どういうことかと申しますと。
ギンガリッチ教授の「小さい人は人でないのか」の発言に、
恐らくコーカソイドであろうと思われる彼より小柄なアジア人として
何というかこう、微妙にコンニャロオと思ったわけで。
その瞬間、違和感の謎も解けたわけです。
無論、教授の言う「小さい人」は、冥王星の小ささを例えたものであって
ホンモノの「小柄な人」を指しているわけではありません。
ただ、その言葉の中にどこかしら、「小さい人」を劣ったものと見る視線を
わずかに感じてしまったわけなのです(邪推であることを祈ります)。
で、「小さくたっていいじゃねえかよう」と。
というより、良し悪しは大きさで決まるわけじゃない、わけで。
だとしたら、なんで惑星じゃないといけないのか。
矮惑星じゃいけない理由が、果たして何かあるのか。
「惑星」「矮惑星」と区分はあくまで区分であって、序列じゃありません。
価値としてはあくまで平等なヨコの関係であって、優劣のタテ関係じゃありません。
この世にいろんな国やら文化やらがあって、
みんなそれぞれ価値がある(理論上は)のと一緒。
いいじゃないですか矮惑星だって。ちょっと分け方が今までと違うだけです。
冥王星そのものは何も変わりません。今までどおり、ロマンのある天体です。
「アメリカ人のトンボー博士が発見した天体」って事実だって、そのままです。
(とすると、散々言われた「降格」って表現もちょっとアレですな)
それに何てったって、今度決定された惑星の定義そのものは、
とてもスッキリしていて分かりやすい。
現時点でこれが科学的に正しい結論なら、私は受け入れるのに抵抗ありません。
さらに言うなら、惑星じゃなくなった冥王星は、
惑星の定義案とは別に、冥王星を海王星以遠にある天体群の典型例と位置づけることも可決された。ただ、その名称を「冥王星系天体」とすることは否決された。
(2006年8月25日毎日新聞朝刊)
てなことになるんだそうです。
ある企業の社員が独立して、別の会社の広報トップになるようなもんでしょうか。
社長とまでは行きませんが(「冥王星系天体」って名前じゃないので)、
考えようによっては、これだって充分出世じゃないかしら。
もちろん、惑星を中心に物事を考えてる今の社会では、
惑星じゃなくなったことで重要度や話題性が格段に落ちることは否めません。
それでも、何より私が言いたいのは
「人間社会での重要度や話題性≠星の価値」ってことです。
(そして仮にも一度は惑星だった星ですから、
今後も教科書の囲み記事に、そのエピソードは載り続けるでしょう)
というわけで。
そう思ったので、今はあんまり悲しくないです。多分。
いえ、ホントのこと申しますとね、
この冥王星騒ぎでプルートにまんまと首までドハマリしてるって寸法です。
うん。
で、ウチ、確かXシリーズボスサイトなんでしたよね。
でもいいんだ、ボスなんだから。
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